★第18回鎌倉同人会講座「田辺新之助と鎌倉」 日時:2021年4月25日(日)14時~15時30分 講師:松坡文庫研究会代表 袴田潤一氏 令和三年度の最初の「鎌倉同人会」講座が新型コロナウィルスのパンデミックの中、参加人数を制限し、さらに、三密を避けるという感染症対策を徹底して開催されました。 今回は「田辺新之助と鎌倉」と題して、鎌倉同人会の名称を選び、発会趣旨書を起草した田辺新之助について、鎌倉との関わり合い中心に、「松坡文庫研究会」代表の袴田潤一氏からお話を伺いました。 田辺新之助は逗子開成中学・高等学校や鎌倉女学院を創設し、校長を務め、教育者として評価されただけでなく、明治・大正・昭和時代にかけての漢詩壇でも、漢詩人として活躍し、その名を残しました。 「松坡文庫研究会」は田辺新之助のご遺族から鎌倉中央図書館に寄贈された膨大な蔵書群(「松坡文庫」)を近代史資料室と協力して、調査・分析を行っていて、その代表を袴田潤一氏が務めています。調査・分析から新たに判明した多くの事実を含めて、以下のような内容でお話をいただきました。 1.教育者としての田辺新之助 田辺新之助は高橋是清の推輓で、共立学校(後の開成中学校)の英語・地理教授となり、明治30年(1897)から校長を務めます。そして、開成中学校校長在職中の明治36年(1903)、逗子に第二開成中学校(現在の逗子開成中学校・高等学校)を、翌年、鎌倉女学校(現在の鎌倉女学院中学校・高等学校)を設立し、校長となります。逗子開成は大正2年(1913)まで、鎌倉女学校(鎌倉高等女学校)は昭和9年(1934)までその職にあり、優れた教育者として高く評価されています。 2.鎌倉同人会と田辺新之助 田辺新之助は明治末に鎌倉に転居し、亡くなるまで鎌倉に住みましたが、鎌倉同人会設立(同人会の命名、設立趣旨書の起草)に関り、現在、鎌倉に残る旧蹟保存指導標の撰文にも携わりました。 3.漢詩人としての田辺松坡 唐津で和漢学を学び、上京後、二十代半ばで詩壇に颯爽とデビューし、明治17年(1884)に、中澤機堂によって「松坡」の号を与えられました。その後、鎌倉で、周辺の漢詩愛好家を集めて、妙本寺、本覚寺、英勝寺、寿福寺、円覚寺などで漢詩の講座を開き、自らも漢詩界(松社)を主宰するなど、明治後半から昭和19年(1944)の死まで、日本の漢詩壇の第一人者として活躍しました。 4.鎌倉での交友関係 また、田辺新之助は鎌倉を舞台に、多くの漢詩人、文化人、政治家、経済人などと交流を行いました。交友を深めた人々の中には、松方正義、柴山矢八、阪正臣、海上寿子、田中智学、黒田清輝、陸奥廣吉、間島弟彦、比田井天来、片野晃陽、有島生馬などがいました。 5.今日の鎌倉に見る田辺松坡 いくつかの旧蹟保存指導標や旧鎌倉図書館前の間島君旌徳碑、鎌倉女学院の田辺新之助先生像、妙本寺の漢詩碑と聯句画軸、瑞泉寺詩軸など、多くの足跡が現在鎌倉で見られます。 講師の袴田潤一氏は、最後に、「田辺新之助は鎌倉の明治・大正時代を清雅な町として、高い精神文化の香りのある雰囲気を作り上げた中心的存在の一人であったと評価されている」と締めくくりました。 講師の袴田潤一氏 会場風景 田辺新之助の著作等 |
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