★第4回鎌倉同人会講座 「勝見正成氏の墓参と同氏についてのお話」 講演会
(2016.9.29 於:長谷寺) |
平成28年9月29日、心配された雨もなく少々汗ばむ陽気の中、参集された会員たちにより和やかにかつ厳かに墓参は
行わ
れました。墓所は長谷寺の境内を登り切った高所に位置し湿った感じはなく、少し角度をとれば鎌倉の海を見下
ろせる絶好
の立地です。 墓石は二つあり、相同形ながら少し大きさが違います。何故、墓石が二つあり、かつ大きさ
が違うのかが一つ
めの謎です。そして、墓石の裏に目を転じると、戒名が刻まれています。その戒名の中の一単語が
二つめの謎となっていま
す。そもそも、勝見先生のお墓に関わる謎もさることながら、無縁墓となりあれ荒び崩れか
けたお墓の主を探し当てたのが
他ならぬ今講座の講師の正山先生でした。先生のご尽力で、勝見先生のお墓は鎌倉市
医師会により永代供養墓として再生し
たわけです。
会場の長谷寺 勝見氏のお墓 墓参
向かって右のお墓の墓名は「勝見正雄」、左には「勝見正成」とあります。勝見正雄は勝見先生の嗣子で、先生が
34歳
の
ときに出生し、わずか6か月で他界しています。その後先生は、48歳のときに隣に生前墓を建てています。
墓石の形は同じ
くしつつも、嗣子のものよりも心持ち小さく設えていて、早逝した我が子にそっと寄り添っているので
しょう。一つ目の謎
の答えです。墓石の裏に刻まれた戒名は「橘井院正成闡堤居士」とあります。「闡堤」の語は原仏
典のイッチャンティカの
音写で、せんだいと読みます。意味は、仏法を信じない非道の人ということです。一体何故、自らの墓にそのような語を残
したのでしょうか?二つ目は、謎のままです。
講師:正山尭氏 講演風景 受講者
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ご存じのとおり勝見正成先生は、大正4年、初代理事長である陸奥廣吉伯爵らとともに鎌倉同人会設立の発起人の一人
となった人物です。旧加賀藩士で、明治期に入り金沢で医師となり、明治20年、由比ヶ浜の波打ち寄せる疎林を拓いて
開業した鎌倉海濱院と命名された洋式サナトリウムに医務吏員として着任しました。数年後の鎌倉海濱院の閉鎖から鎌倉
海濱ホテルへの改組のなか、鎌倉で最初の開業医として此の地に住みつくに至りました。当時の鎌倉郡の初代医師会長と
なり、大正8年までその職にあり、明治41年、細菌学の実質的創学者である医学界の泰斗ローベルト・コッホ博士来日の折
には、その鎌倉滞在中に北里柴三郎博士らとともに鎌倉の名所・旧跡を案内しつつ丁重におもてなしをされました。来日
2年後に急死されたコッホ博士への哀惜の念から、北里博士らとともに発起人となり、稲村ケ崎靈仙山々頂に“R.コッホ
来日記念碑”を建立しました。そして、前述の鎌倉同人会の設立を期に、かねてから憂慮していた鎌倉の荒れ放題になっ
ていた歴史的遺産の保存活動に着手されました。
その他、鎌倉海濱ホテルの辿った数奇な軌跡や、正山先生の若かりし頃の瑞泉寺での隠遁?生活のことなども語られ、活発な
質問に答えつつ終始笑いを誘う楽しい会は終演しました。
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